スケートボードの歴史(80's)をプレイバック!今知るべきスケートボードの歴史。 |RIDE LIFE MAGAZINE SKATE | ムラサキスポーツ/MURASAKI SPORTS公式サイト

 

 

2020東京五輪の正式種目となり、注目を集めている競技『スケートボード』。

今、メディアなどで注目を集め、スケートボードに触れる機会が多くなり、今年から始めた方も多くいるかと思います。

 

そこで、今まであまり知ることのできなかったスケートボードの歴史について当時を知る現ムラサキスポーツのマーケティング部所属でワールドスケートジャパン 日本代表監督を勤める西川隆にスケートボードの歴史と80年代のムラサキスポーツとスケートボードの関係性について、当時の写真を元に振り返ってもらった。

 

 

スケートボードの発祥に関しては様々な説がありますが、1940年代カルフォリニアと言われています。当時は木の板に鉄製の戸車やローラースケートを付けた手製のもので、子供達が家の周りや坂で滑っていた様です。

 

 

60年代に入るとおもちゃとしてスケートボードを作るメーカーができ、南カルフォルニアを中心にアメリカ国内で一気に広まりました。サーファーの陸用として愛好者が増え、第一次のスケートブームが巻き起こる。60年代後半には、日本でもおなじみのVANSシューズが設立される(自分の生まれた年です)。

 


70年代に入ると、スラロームやフリースタイルといった競技としてのスケートボードも広まり、スケートボードを専門に作るメーカーやそこと契約するプロのライダーが生まれる。DOGTOWN でもおなじみのZ―BOYZもこの時代の物語である。

 

 

1976年、若者雑誌として創刊されたポパイでカルフォルニア特集の中でスケートボードが紹介され、日本国内でもスケートボード熱が一気に広まり、日本においてもスケートボードを本格的に輸入する商社も増えるほどに。これが第二次ブームと言われています。そして、このころには渋谷東急文化会館の屋上にカルフォルニアスケートパークがオープン。平和島や瀬田パークなど全国各地にも様々なスケートパークがオープンしたのもこの時代です。

 

 

〈 清瀬にあったムサシバッテイングセンターにあったスケートパーク 〉

 


その後、80年代から90年代はファッションと音楽が混ざり合う文化の三次ブームがやってくる。海外からの情報量も増え、ストリートカルチャーと言われる言葉まで生まれ、流行に敏感な若者を中心に人口が一気に増えた時代です。そこから現代に至りますが、スケートボードのブームは10年周期ぐらいで盛り上がったり、冷え込んだりしています。最近では男女問わず幅広い年齢層のスケーターが増えているのが以前とはちょっと違うところです
 

 

 

ムラサキスポーツで初めてスケートボードを扱ったのは70年後半からと言われています。その後、第二次ブーム後半、1978年に原宿の竹下通りに原宿店がオープン(トラックの老舗ブランド、INDEPENDENTも78年創業)。

 

 

〈 来日したRodneyMullen、竹下通りのムラサキスポーツ前でいきなりのデモンストレーション 〉

 

 

70年代当時から週末の代々木歩行者天国にスケートボーダーが溢れていた事もあり、一気にブレイクした様です。自分も初めてムラサキスポーツに行ったのは83年の夏休み。当時は二次ブームも終わったころで、バイトで貯めたお金でウイールを買いに行ったことがきっかけです。

 

 

スケートボードとの出会いは中学の時の同級生がファイバーでできたスケートボードを持っていて、その時友達の家にあったスケートボードの映画を見て(タイトルは忘れましたが)魅力に引き込まれ、学校から帰ると毎日友達の家でスケートボードしていたのを覚えています。

 

 

〈 原宿店前にて。よく人にぶつけてた 〉

 


その時買ったウィールは、POWELLのRollerBonesというローラースケートのマラソンでもので、東京だとムラサキスポーツ原宿店でしか売ってなくって、確か4個で18,000円だった記憶があります。当時はボードで12,000円トラック1個5,000円ウイールが8,000円、コンプリートにすると35,000〜40,000円ぐらい。その時の記憶はお店の品揃えに圧倒され、ここはアメリカか(アメリカには行った事は無かったが)です。時間さえあれば、必行くお店に。当時は新宿に住んでいたので、代々木の歩行者天国で滑ったり、代々木公園や渋谷の児童会館(美竹公園)で滑ってから用も無くお店に出入りしてました。

 

 

〈 渋谷児童会館(美竹公園)スケートボードをする為にあるような公園だった 〉

 


ある日、「そんなに来るならバイトするか?」と当時の店長の近藤さんに声をかけられ、次の日から店員デビューです。当時のムラサキスポーツには、原宿にローズ松島、上野にレンタル松井と当時の最強のプロスケーターが働いていて,毎日が楽しかった。正月には出口が見えないくらいのコンプリートを作らされた事もあったし、毎日100本ぐらいのコンプリートを店頭に出し入れして事もあったが、今では良い思い出でですね。

 

 

〈 原宿店店内 毎日こんな感じ。コンバースのオールスターもよく売れた 〉

 


朝は原宿駅からお店までプッシュ10回で行くとか、店頭で休憩時間はスケートしたりと、毎日スケートボード三昧でした。80年代は今の様に海外の情報は店頭にあるTHRASHERやTRANSWORLDの雑誌。今の様にインターネットもYouTubeもない時代で、動画といえば繰り返しダビングされた大会のVHSぐらい。

 

 

〈 情報はTHRASHER 〉

 

 

その中、84年に衝撃的なビデオがPOWELLから発売される。”The Bones Brigade Video Showに度肝を抜かれた。店頭で流れる映像を朝から晩まで見とれていたのを覚えています。その中の技を、見よう見まねで練習しまくりでした。ストーリー性のあるつくりや音楽のチョイスなど、今考えるとその後のVHSやDVDなどの制作に大きく影響を与えた作品だといえる。(その後、パブリクディメイン、アニマルチンと続く)

 

 

〈 新しいVIDEOがやってくると、店頭が上映会場となる原宿店 〉

 

 

また、バーチやボールなどの支流に、ストリートというジャンルが生まれコンテストも行われ出したのもこの時代。それに伴い、大きく道具も進化しました。70年代は8インチぐらいの尖ったボードから、80年代前半は10インチの太いボードに、幅の広いトラックと固いウィールに変化。

 

 

80年代中盤になるとノーズが徐々に長くなり、ウィールも細めで大きなものが発売される。このころにVENTUREやTHUNDERというトラックが生まれたのがこの時代です。

 

 

〈 清瀬にあったムサシスケートパークにて 〉

 

 

〈 三軒茶屋にあったロサンジェルスクラブ。ビリヤードも良くやったな 〉

 


84年にプロモーションで初めて来日したキャバレロとミューレンに大きな衝撃を受ける。生のデモや東京 清瀬ムサシスケートパークでのキャバレロの鉄板ランプでのインバートなど度肝を抜かれました。当時はスケートボードブームとは言えない状況でしたが、その後毎年の様に海外スケーターが来日する様になり、その2年後には、横浜 氷川丸での伝説のムラサキイベントと続くのである。(その時、買ったばかりのキャバレロのボードを海に落とした事は忘れない)

 

 

80年代後半には、VISIONやSANTACRUZのボードブランド、JIMMY‘SやLIFE THE BEACHウエアーなどの三次スケートブームとなっていく。仕事終わりから、渋谷、三軒茶屋のロサンジェルスクラブでスケートもよく行った。当時はデモで来日する外人は必ず行くんで、一緒に酒飲みながらセッションしてました(足首をグリッチョして寝ていたクリスチャン・ホソイの足を踏んだのは俺です)

 

〈 横浜 氷川丸でのPowell デモでのSteve Caballero 〉

 

 

〈 海外ライダーが来日すると、夜のイベントにも出没 LanceMountainと 〉

 


こんな感じでスケートが徐々に盛り上がった80年代後半、ムラサキスポーツは当時からコンテストやイベントを自ら運営、協賛していました。今のムラサキスポーツのスケートボードが築かれた時代だったと言えるでしょう。
 

 

〈 茅ヶ崎店前でライダー達と集合写真。なつかしー 〉

 

 

〈 お店の近くを借りてデモンストレーション。クリスチャンホソイ。このジャンランが後の茅ヶ崎ランプに 〉

 

 

photo by Yoshiro Higai

text by Takashi Nishikawa

 

 

photographer

樋貝 吉郎 / Yoshiro Higai

1965年生まれ
80年代より現在までスケートボード、スノーボードを記録し、近年はエディター、プロデューサーとしても活動の範囲を広げている。
https://studiofishi.com/

 

 

西川 隆 / Takashi Nishikawa

1966年生まれ
中学生で初めてスケートボードにハマり大学進学を諦め、ムラサキスポーツへ就職。
スケートボードは勿論の事、プロスノーボーダーとしての実力も兼ね揃える、元祖ユーティリティープレイヤーとして、業界を牽引してきた1人。
様々な経験から、スケートパークの設計を手掛け、吉川スケートパーク、X-DOME海老名、ムラサキパーク岸和田等。
現在はムラサキスポーツ マーケティング部所属をしながら、日本スケートボード協会理事 ワールドスケートジャパン 日本初代の東京五輪スケートボード日本代表監督として世界中を飛び回っている。

 

 

 

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